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2007年12月 アーカイブ

2007年12月09日

アボリジニの聖地 ウルルについて知りたい。

世界で6番目に大きな面積をもつ国、オーストラリアのほぼ中央にあり、一般に「エアーズロック」と呼ばれている、ウルル。ノーザンテリトリー、ウルル=カタ・ジュタ国立公園(87、94拡大 ユネスコ 複合遺産)の園内に存在します。「大地のヘソ」「地球のヘソ」と呼ばれることもあります。

ウルルというのは、オーストラリアの原住民「アボリジニ」による呼称です。アボリジニはウルルの周辺に今から1万年以上前から住んでいるのです。ウルルはアボリジニの聖地なのです。

現在ウルルには、杭が打たれ鎖が張られて登山路が設置されています。そのため頂上まで上ることは可能ですが、先ほども申し上げたように、ここはアボリジニの方々にとって「聖地」なのです。ウルルには、彼らの遺した壁画があります。1千年ほど前のものと思われるそれらの壁画には、精霊などが描かれています。彼らは、観光客が彼らの聖地であるウルルに上ることを決して好ましく思っていません。そのため、アボリジニの儀式が行われるときにはウルルへの登頂は遠慮しなければなりません。

世界遺産に登録されたことでいっそう脚光を浴びることとなったウルル。しかし、私たちが山登りをする感覚でこの大きな聖地に足を踏み入れることは、決して許されることではないのです。

ギリシア アクロポリス遺跡について調べてみました。

ギリシアには、ユネスコに登録された世界遺産が14件あります。なかでもギリシア古代遺跡のハイライトは、アテネのアクロポリス神殿でしょう。これは、人類文明の遺産といっていいのではないでしょうか。

アクロポリスとは、「高い丘の上の都市」という意味です。ここには、古代の聖地、神殿が建てられて地です。また、ポリス、つまり(都市国家)の要塞としての意味も果たしていました。

現在、アクロポリスへは比較的楽にアクセスできます。路線バス、市内観光バス、それに各ツアーの貸切バスなど・・・。でもやっぱりお勧めは? テクテクと・・・いえ、ゆっくり、のんびりと歩いていくのがいちばんではないでしょうか? アテネ中心部、できればアクロポリスの周辺に宿を取り、街並みを散策しながらゆっくりとアクロポリスに入っていってはどうでしょう? ちなみに、アクロポリスの入場券はディオニオス劇場、ゼウス神殿、ローマン・アゴラ、古代アゴラ、ヘファイスト神殿、アタロスの柱廊博物館、ケラミコス遺跡、といった名だたる名所の数々に入場可能です。
アクロポリス駅からでもいいですが、ちょっぴり運動もかねて、ビクトリア駅から南へ、オモニア広場へ向かい、アナティナス通りを抜けていくとローマン・アゴラ、古代アゴラに出ます。アクロポリスは丘の西側が入り口となっていますので、そこから西へとまわり、丘へ入っていくと現代から古代へと悠久の歴史を自由に旅できるのではないでしょうか?!

2007年12月10日

ウルル登山について調べてみました。

オーストラリアのほぼ中央に位置し、「世界のヘソ」「地球のヘソ」とも呼ばれる巨大な1枚岩、ウルル、通称エアーズロックは、世界で2番目に大きな岩石です。オーストラリアに17件存在する、ユネスコの世界遺産の1つ、ウルル=カタ・ジュタ国立公園のなかにあります。

オーストラリア原住民アボリジニの聖地である、ウルルには現在、杭や鎖が打ち込まれ、登山路が設置されています。しかし、ここはアボリジニの聖地であるため通常の登山のような気持ちで臨むことはできません。というよりも・・・その険しい自然から考え、軽く「観光気分」で臨もうなら、それこそウルルの精霊たちの逆鱗に触れ、たちまちその垂直に切り立った壁面から弾き飛ばされてしまうでしょう!

せっかく来たのだから・・・と、多少の無理をしてでも登りたい気持ちはわからないでもありません。しかし、旅の疲れもありますし、体調の優れない方、心臓や呼吸器に障害がある方、そして・・・高所恐怖症の方は・・・絶対に無理な登頂は控えましょう。登頂しなくても、ゆったりと麓を散策するだけでも十分、楽しいですよ。えぐれた基部やひび割れた岸壁など、ウルルの魅力は十分に堪能できます。

「ウルル」とは、「集う場所」という意味です。そこに集うことの価値、世界遺産としての意味を満喫したいものですね。

2007年12月11日

マルタ共和国の世界遺産について説明します。

長靴の形をしたイタリア半島、そのイタリア半島がコツンッとシチリア半島を蹴ったとしましょう、そのときコロンと弾かれたしまった小さな小石が3つ、まさにそんな感じのちっちゃな島3島から成るのが、マルタ共和国です。マルタ島、ゴゾ島、そしてその間に挟まれた更にちっちゃなコミノ島です。地中海性気候のため、夏は暑く乾燥しますが、冬は温暖で雨が多い天気です。


地中海にコロンと浮かぶ、この島国は、カルタゴ、共和政ローマ時代に地中海貿易で栄え、その後イスラム帝国の支配下に入ったこともありました。そしてそれに抵抗して戦ったのが、この土地の名前の由来ともなった、マルタ騎士団です。

この小さな国家には3つの世界遺産があります:

●ハル・サフリエニ地下墳墓(80 文化遺産)
●ヴァレッタ市街(80 文化遺産)
●マルタの巨石神殿群(80、92に拡大へ 文化遺産)

2004年には欧州連合にも加盟し、2008年からは統一通貨ユーロが導入される予定です。ちっちゃな国の大きな国際デビューです。
地中海の楽園を訪れたら、かつての繁栄をしのばせる豪華な宮殿と共にその自然を満喫したいものです。

2007年12月12日

キプロス共和国の世界遺産について説明します。

小さな島国のキプロス、正確にはキプロス共和国は、面積が9251km2のキプロス島一島からなる島です。その大きさは、四国の半分といっていいほどです。
しかし緑が豊かで、島の中央には、オリンポスの山を中心とした山岳地帯が広がります。海の幸にも恵まれ、高い生活水準を維持する国でもあるのです。

ギリシア神話にも登場する美の女神、アフロデイ(英語名 ビーナス)が誕生した地として記憶されている方もいらっしゃるかもしれませんね。

ヨーロッパのギリシア、アフリカのエジプト、そしてヨーロッパとアジアが交差するトルコ、といった古代文明国に囲まれた位置にあることから、ここ、キプロスは古代から文化の交流地として重要な役割を担ってきました。

キプロス島は、ギリシア語を話しますが、英語もほとんど通じます。日本からの直行便はありませんが、ヨーロッパからも、エジプトからも比較的アクセスは容易です。

小さな島の1万年の歴史を覗いてみるのもいいかもしれませんね。

2007年12月13日

ユネスコのさまざまな活動について知りたい。

世界遺産をめぐる活動で有名なユネスコ、国際連合教育科学文化機関、は1945年11月に採択された「国際連合教育科学文化機関憲章」(ユネスコ憲章)に基づき、1946年に設立されました。教育、科学、文化の発展と推進を目的とする国際連合の専門機関です。

ユネスコの主な活動

1.「万人のための基礎教育」
2.「文化の多様性の保護および文明間対話の促進」

世界遺産の登録と保護は、2に基づきます。ユネスコはその他に、1の活動として、識字率の向上や義務教育の普及活動を行っています。この1の活動は、日本の財団法人ユネスコ協会連盟においては、「寺子屋運動」として展開されています。世界中のすべての人に教育の機会を提供し、読み書きや計算を学べるようにしようという運動です。

具体的には、学習の場の建設、識字と生活技術の授業、教員・寺子屋運営者の研修、さらに教材づくりも行います。

2002年~2013年は、「国連識字の10年」と定められました。すべての子どもたちが学校に通えるように、また成人女性の識字率向上を目指しています。

私たちが日本で当然のように受けた義務教育を受けられない子どもたちが世界には、7700万人いるといわれます。文字の読み書きができない人は7億8100万人に上ります。この現実を考えるとき、私たちは自分たちがいかに恵まれているかを実感すると共に、その機会を奪われてしまっている世界の子どもたち、人びとに何かできることはないか、と真剣に思います。

2007年12月14日

デルフィの遺跡について説明します。

アテネから北西へ約170km行くと、古代ギリシア宗教の中心部として栄えたデルフィがあります。ここを訪れると、今でも、その神々しい聖域としての雰囲気をしみじみと感じます。古代ギリシアにあこがれてギリシアを訪れた人は、是非、このオリーブ畑の広がる聖地に足を踏み入れてみてはどうでしょう。

デルフィは古代ギリシアの都市国家、ポリスでした。現在ここはデルフィの遺跡として、1987年 ユネスコの世界遺産「文化遺産」に登録されています。

デルフィの遺跡は、アポロン神殿を中心とする神域と、都市遺跡からなります。
パルナッソス連山の懐に抱かれ、遠くにはコリンティアス湾を望むこの地では、かつてアポロンの神託が行われました。神託というのは神のお告げです。全盛期は紀元前6世紀頃でした。デルフィの神託は、ギリシア神話にも登場します。また、「オイディプス王」の伝説にも登場しています。

デルフィの遺跡は、世界遺産登録基準の1,2,3,4,6、を満たしているとして文化遺産リストに登録されました。

アポロン神殿には、「大地のヘソ(オンファロス)」とされた石があります。ここで神託がおこなわれていたのです。古代ギリシアにおいて世界の中心であったここデルフィは、世界のヘソ「中心」としてあったのです。

2007年12月15日

オーストラリアの世界遺産について知りたい。

オーストラリア、正式にはオーストラリア連邦は、オセアニアに位置する、世界でも6番目に面積が大きな国です。南東にはニュージーランド、北にはインドネシア、パプアニューギニア、東ティーモールが存在します。英連邦王国の一国です。英国連邦とは、英国、すなわち、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国の王座にある者、

豊かで、独自の自然をもつオーストラリアには、自然遺産を中心として16件のすばらしい遺産がユネスコの世界遺産に登録されています。文化遺産が2件、自然遺産が10件、さらに複合遺産が4件です。

★文化遺産
王立展示館とカールトン庭園 - (2004年)
シドニー・オペラハウス - (2007年)

★自然遺産
グレート・バリア・リーフ - (1981年)
ロード・ハウ島群- (1982年) ※
オーストラリアの中東部の多雨林保護区群 -(1986年)
クイーンズランドの湿潤熱帯地域 -(1988年)※
西オーストラリアのシャーク湾 -(1991年)
フレーザー島 -(1992年)
オーストラリアの哺乳類化石地域(リヴァーズレー/ナラコーアテ) -(1994年)
ハード島とマクドナルド諸島 -(1997年)
マッコーリー島 -(1997年)
グレーター・ブルー・マウンテンズ地域 -(2000年)
パーヌルル国立公園 -(2003年)

★複合遺産
カカドゥ国立公園 - (1981年)
ウィランドラ湖群地域 - (1981年)
タスマニア原生地域 - (1982年)
ウルル-カタ・ジュタ国立公園 - (1987年)

2007年12月16日

ギリシャの世界遺産について知りたい。

2004年の夏、ギリシャの首都アテネで開催された夏のオリンピック。21世紀になって初の夏季オリンピック、しかも1896年の第1回近代オリンピックがアテネで開催されて以来、実に、108年ぶりの里帰りとあって、世界中の注目を集めたオリンピックでした。199カ国、1万人以上のアスリートが参加しました。

全部で16件、そのうち、文化遺産は14件、複合遺産が2件、自然遺産はありません。

●文化遺産
バッセのアポロ・エピクリウス神殿 - (1986年)
デルフィの考古遺跡 - (1987年)
アテネのアクロポリス(パルテノン神殿) - (1987年)
テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群 - (1988年)
エピダウロスの考古遺跡 - (1988年)
ロードスの中世都市 - (1988年)
ミストラス(ミストラ) - (1989年)
オリンピアの考古遺跡 - (1989年)
デロス島 - (1990年)
ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院 - (1990年)
サモス島のピタゴリオンとヘライオン - (1992年)
ヴェルギナの考古遺跡 - (1996年)
ミケーネとティリンスの考古遺跡群 - (1999年)
神学者聖ヨハネ修道院と黙示録の洞窟を含むパトモス島の歴史地区 (ホーラ) - (1999年)
ケルキラ歴史地区(コルフ歴史地区)-(2007年)

●自然遺産
なし

●複合遺産
アトス山 - (1988年)
メテオラ - (1988年)

東はエーゲ海、西はイオニア海、南は地中海に囲まれ、イギリスやドイツなど、冬が長く厳しい国々の人たちからは憧れのリゾート地です。とはいえ、真冬でも泳げるというわけではありませんし、地域によっては雪も積もります。しかし、観光客でごったがえす夏をあえて避け、秋から冬にかけてギリシャを訪れてみると、これらの歴史的な遺産をゆっくりと落ち着いたなかで見ることができるのではないでしょうか。

2007年12月17日

世界遺産候補 国立西洋美術館本館について知りたい。

現在、日本の世界遺産(文化遺産)暫定リストに登録されているひとつに、国立西洋美術館があります。東京台東区に位置する、西洋の美術作品を専門とする美術館です。

印象派など、19世紀から20世紀前半の絵画や彫刻を中心とする松方コレクションを基にしたこの美術館がなぜ世界遺産候補になったのでしょうか?

この美術館の本館は、ル・コルビュジェの設計によるものです。1998年には旧建設省によって「公共建築百選」に選定されています。国立西洋美術館は、1998年に大規模な免震レトロフィット工事を行いました。これは地下を含めすべてを地盤から絶縁するという大掛かりな工事です。日本における免震レトロフィット工事としては初のものでした。

最終的に世界遺産への登録の可否が決定するのは、2009年の世界遺産登録会議を予定しています。申請されるのは、世界7カ国に散在する計23件です。日本国内にある文化遺産を外国政府が推薦するのは史上初の試みです。

現在、日本でも2007年に文化庁が、この西洋美術館を日本の重要文化財にしている予定を立てています。

2007年12月18日

募金活動について説明します。

日本ユネスコ協会連盟は、全国のユネスコ協会、個人、企業、学校などに募金の協力を呼びかけ、協会の世界活動に対して理解を求めています。募金は、日本ユネスコ協会連盟が行う、さまざまな世界遺産活動に活用されています。

たとえば、日本ユネスコ協会では、2005年4月~2006年3月にかけ、現地パートナーの社会法人青森県ユネスコ協会と協力し、世界遺産である「白神山地」を未来の子どもたちへ引き継ぐために植栽活動を行いました。支援額は、2500000円です(2006年度の継続実地分も含めて)。この事業では、テレビ愛知が愛知万博の会場で募った募金が活用されました。

その他、ユネスコカードから募金する方法があります。これは、カード所有者の負担はなく、カード(ユネスコUCカード)を持つだけでカード会社からカード使用金額の一定額が協会に寄付される仕組みです。

何か日常のちょっとした形で、世界遺産の保全に自分も協力できることを見つけていきたいですね。

2007年12月19日

中国の世界遺産について調べてみました。

アジアのなかでもずば抜けて多くの世界遺産をもつのが、中国です。2番目のインドが文化遺産、自然遺産、複合遺産をあわせて26件(2006年)であるのに対して、中国は33件です。大韓民国は7件、朝鮮民主主義共和国は1件、タイは5件・・・そして日本は自然遺産が3件、文化遺産が11件で計14件ですから、やはり群を抜いているといえるでしょう。

歴史の教科書でもお馴染みな、万里の長城や秦の始皇帝陵、さらに四川パンダ保護区などもあります:

泰山 - (1987年、複合遺産)
万里の長城 - (1987年、文化遺産)
北京と瀋陽の明・清王朝皇宮 - (1987年、文化遺産)
莫高窟 - (1987年、文化遺産)
秦始皇帝陵及び兵馬俑坑 - (1987年、文化遺産)
周口店の北京原人遺跡 - (1987年、文化遺産)
黄山 - (1990年、複合遺産)
九寨溝 - (1992年、自然遺産)
黄龍風景区 - (1992年、自然遺産)
武陵源 - (1992年、自然遺産)
承徳避暑山荘と外八廟 - (1994年、文化遺産)
三孔 - (1994年、文化遺産)
武当山古建築 - (1994年、文化遺産)
ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群 - (1994年、文化遺産)
廬山 - (1996年、文化遺産)
峨眉山と楽山大仏 - (1996年、複合遺産)
麗江古城 - (1997年、文化遺産)

中国の世界遺産には、3件の複合遺産が含まれます。ユネスコの世界遺産リストのなかでも文化遺産、自然遺産と比べて数が少なく、日本にはまだ1件もない複合遺産です。中国の魅力は、その長い歴史のなかで人と自然が調和をとって生活してきたところにあるのかもしれませんね。

2007年12月20日

文化の坩堝&文化のモザイクについて知りたい。

地中海を挟んでイタリアの靴の先、シチリア島の真向かいにある、チュニジア。地中海の紺碧の青と澄み切った青空、そして白壁に生えるチュニジアンブルーのドアや窓枠のコントラストが美しい街、シディ・ブ・ザイド。世界遺産にも指定されているカルタゴ遺跡とドゥッガ遺跡、そして珍しいブラ・レジア遺跡など、チュニジアには古代ローマ時代の遺跡が数多く残されています。ここは、新鮮な地中海の幸とローマの穀倉地帯と呼ばれた豊かな作物が、エキゾチックなオリーブオイルの香りに包まれ、人々の舌を魅了する地中海のリゾート地。

一方、国の南は、サハラ砂漠の入り口でもあります。メトラウィからセルジャ渓谷まで、山岳オアシスを行く列車、セザール・ルージュでおよそ1時間。車窓からは断崖絶壁の風景が広がります。オアシスを抜けると、そこに突如現れるのがサハラ砂漠。月面を想像させる土漠の世界、ここは映画スターウォーズの舞台ともなった地です。そしてそこには、かつてサハラの暑さを敵の目を避けるために穴を掘って住み始めた、先住民族ベルベル人が要塞のような洞窟での生活を続けているのです。

地中海、アフリカ、そしてアラブの文化が微妙に重なり、微妙に溶け合い、バランスを保って息づく国、それがチュニジアです。ユネスコはその活動の重点的に推進する目標のひとつに、「文化の多様性と保護および文明間対話の促進」を定め、その活動の一環として世界遺産の登録と保護を進めています。一国にしてこれほどの多様性が互いに対立するでもなく、かつ完全に溶け合いもとの形を失うのでもなく、それぞれ今に息づいているチュニジアは文化の坩堝(るつぼ)であり、文化のモザイクでもあるといえるのではないでしょうか。

2007年12月21日

日本ユネスコ協会の活動について知りたい。

日本では現在、文化遺産が11件、自然遺産が3件、合計14件の世界遺産が登録されています。また、自然遺産では小笠原列島、文化遺産では富士山や彦根城など、合計9件が世界遺産候補として暫定リストに登録され、世界遺産への登録を目指し、その調査とPR活動を積極的に展開しています。

そもそもユネスコの世界遺産活動は、世界中の遺産を国際的な組織の枠組みのなかで保全していこうという取り組みです。世界にはさまざまな要因で保護が困難になっているところがあります。日本ユネスコ協会連盟は、日本だけではなく、アブがニスタン、ネパール、ベトナム、パキスタン、フィリピンで、世界遺産の保護活動を行っています。

たとえば、どのような活動があるのか、具体的にみてみましょう:

ベトナム社会主義共和国では、2005年3月~2005年9月にかけて、ベトナム・ユネスコ国内委員会と協力し、ベトナムのファンニャ・ケバン国立公園(2003年に自然遺産として世界遺産リストに登録)のもつ貴重な価値を観光客や地元に人びとに知ってもらうためのパンフレットを663,000円の支援額をもって、制作、配布しました。

世界遺産リストへの登録の本当の意味は、登録後にいかにそれを維持し、未来に伝えていくか、また世界遺産と共に生活していくことに誇りをもてるようにしていくかです。こうした持続的な活動を広く展開してほしいですね。

2007年12月22日

鎌倉の社寺や構造物について調べてみました。

鎌倉幕府から150年もの間、鎌倉は政治の中心であるばかりか、武家文化の中心としても栄えてきました。現在もその面影を残す武家の町並みは、多くの観光客を集めています。鎌倉の大仏、鶴岡八幡宮、建長寺・・・など、鎌倉の社寺と建造物は、1992年、ユネスコの世界遺産の文化遺産候補として暫定リストに登録されました。

現在、鎌倉市は登録に向けた調査やPR活動を展開し、2008年度以降の登録を目指して運動を継続しています。

鎌倉は、古来からの都、平城京や平安京と大きく異なり、日本で初めての向けの都市です。南側は海に面し、東、北、西は山に囲まれているという自然の要害に恵まれているため、城壁などの構造物はなくとも要塞都市として機能を果たす日本で唯一のものです。これはユネスコの文化遺産基準の3,4に該当すると考えられます。

また、鎌倉では、「やと」あるいは「やつ」と呼ばれる小さな谷が開発され、他に類を見ない独創的な特徴の都市を作り出しています。谷底には「平場」が造成され、そこには大小の寺院が建立されました。また、切り立ったがけの「切岸」には、横穴が掘られ、「やぐら」と呼ばれる独自の墓所もしくは聖所が作られたのです。これらの町並みの特徴は、文化遺産基準の5に該当すると考えられています。

環境開発と世界遺産について知りたい。

エジプトのアスワンハイダムといえば、ユネスコの世界遺産活動の発端となったことで有名です。この巨大なダムの建設により、アブ・シンベル神殿をはじめとするヌビア人の建設群が水没の危機にさらされることになったからです。

アスワンハイダムの建設計画がもちあがったのは1960年代です。そしてドイツとソ連の協力によって完成したのは、1970年でした。実はそれよりも前、イギリス支配時代にイギリスが着工し、1902年に完成したダムがありました。アスワンダムです。当時としては世界最大のダムでした。爆発的に増加する人口に対して、毎年氾濫するナイル川を何とかコントロールし、エジプトの農業生産を向上することで問題の解決を図ろうとしたのです。しかし結局、この計画はうまくいかず、アスワンハイダムの建設に至ったのです。

アスワンハイダムからアブ・シンベル神殿へと向かう道程はひたすら砂漠のなかを抜ける、果てしない、気が遠くなるような時間です。アブ・シンベルまであと1時間ほどのところにトシュカと呼ばれる町があります。この地は、アスワンハイダムができる前はナイル川の氾濫で時おり水が流れ込むことがありました。現在、このトシュカの町で、エジプト政府が推し進めているのが、「トシュカ・プロジェクト」です。アスワンハイダムの建設でできた人造湖、ナセル湖の水を運河によって砂漠へ運び、耕地を造成するという途方もない計画です。660億US$という膨大な費用を要し、急ピッチで進められた結果、ポンプが完成、2002年には運転を開始しました。

洪水から人びとの生活を守るために作られたダム、その建設のために移築を迫られた古代遺跡、多くの犠牲を払って完成したダムは、本当に人びとの幸せをもたらすのか、世界遺産の地は、今も目を離せない問題が山済みです。

2007年12月23日

エジプトの世界遺産について知りたい。

コラム30 世界遺産その2 エジプトの世界遺産

ユネスコの世界遺産活動の発端となった、アブ・シンベル神殿をはじめとする、「アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア人の建造物」の他、エジプトには7つの世界遺産が(自然遺産1件、文化遺産6件)が登録されています。

自然遺産
●ワディ・アル=ヒタン(鯨の谷)
ガバル・ゴハンアムの麓に広がる谷。ガバル・ゴハンナムとはアラビア語で「地獄の山」を意味します。

文化遺産
●「アブ・シンベルからフェラエまでのヌビア遺跡群」
アスワン・ハイダムの建設によって水没の危機にさらされた、アブ・シンベル大神殿・小神殿、フィラエ神殿、カラブシャ神殿などのヌビア地方の遺跡群を指します。ユネスコの世界遺産登録の先駆けとなった、救済キャンペーンによって、神殿14、聖堂3、墳墓1水没を免れ、現在に至っています。

●「メンフィスとその墓石遺跡=ギザからダハシュールまでのピラミッド群」
エジプトといえば、真っ先に思い浮かべるのがピラミッド。世界遺産では、ギザのピラミッド、サッカラの階段ピラミッド、ダハシュールの屈折ピラミッド、メンフィスの遺跡などの建造物が文化遺産に登録されています。

●「イスラム都市カイロ」
エジプトの首都、カイロのイスラム地区やオールドカイロにある7世紀から20世紀に建てられた建造物を指します。喧騒に溢れるなか、街にはイスラムの礼拝、アザーンが1日5回流れます。

2007年12月24日

世界遺産候補 長崎の教会群とキリスト教関連遺跡について説明します。

長崎県には、現在、全国の約15パーセントものキリスト教信徒が在住し、キリスト教文化の色濃い地域です。2007年にユネスコの世界遺産暫定リスト(文化遺産)に登録された「長崎の教会群とキリスト教関連遺跡」は、長崎県の西部海岸沿いと五島列島の島々に点在する教会群とその関連遺跡を指します。登録を目指しているのは、原爆被爆後に再建された大浦天主堂をはじめとする以下の資産です:旧羅典神学校、黒島天主堂、旧五輪教会堂、青砂ヶ浦天主堂、頭ヶ島天主堂、田平天主堂、旧出津救助院、出津教会、大野教会、堂崎教会、旧野首教会、江上教会、宝亀教会、原城跡、吉利支丹墓碑、日野江城跡、日本二十六聖人殉教地、ド・ロ神父遺跡、サント・ドミンゴ教会跡など。

長崎の教会群とキリスト関連遺跡は、ユネスコの文化遺産登録基準の2,3,4,5を満たすとしてその認定が待たれています。具体的には次の点があげられています。なかでも基準6は、その迫害と殉教の歴史を前面に押し出し、この遺跡の独自の特徴を示しています:

2007年12月25日

世界遺産候補 飛鳥・藤原の宮都とその関連遺跡群について知りたい。

JR京都駅から近鉄線に乗り、飛鳥駅で下車、そこからバスまたは徒歩で少し行った、奈良県の東部には飛鳥・藤原の宮都とその関連遺跡群が広がっています。飛鳥・藤原は、592年に推古天皇が飛鳥に豊浦宮を開いて以来、794年に平城京へ遷都されるまで、飛鳥時代の歴代の天皇が宮をおいた地域です。

実際、遺跡の大半は地下に遺存するため歴史的建造物はありませんが、ここは、天皇が政治を行った古代都市の歴史を偲ばせる、貴重な空間なのです。

石舞台古墳、高松塚古墳、キトラ古墳などの他、大和三山(耳成山、畝傍山、天香具山)など多数の遺跡が残っています。

これらの遺跡群は、2007年 ユネスコの世界遺産登録を目指し、「富岡製糸場と絹産業遺跡群」(群馬県)、「富士山」(静岡県・山梨県)、「長崎の教会群とキリスト教関連遺跡」(長崎県)と共に、世界遺産暫定リストに登録されました。

大きな岩がそびえる「石舞台古墳」など、古代の香り高いこの飛鳥・藤原の宮都とその関連の遺跡群は世界遺産に登録され、その普遍的な価値を再認識される日が早く来るといい、と日本人として切に思います。

2007年12月26日

世界遺産候補 富岡製糸場と絹産業遺跡群について調べてみました。

絹(生糸)は、開国直後の日本においてお茶と並び、利益が期待された輸出品でした。群馬県富岡市にある「富岡製糸場」は、日本初の器械製糸工場です。明治5年(1872年)に操業を開始し、現在は、約1万5千坪の敷地内に開設当時の繭倉庫、繰糸場など、煉瓦建造物が当時のままの姿で残っています。

平成17年(2005年)に、「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定され、翌年の平成18年(2006年)には、明治8年(1875年)以前の建造物が国の重要文化財として指定されました。

現在、この富岡製糸場およびそれに関連する絹産業遺跡群は世界遺産の暫定リストに登録(文化遺産)されています(2007年)。群馬県は富岡製糸場を中心とするこれらの遺跡群の世界遺産登録に向けて、「富岡製糸場 世界遺産登録推進委員会」を設置し、遺跡の各種調査、研究、およびPR活動を行っています。

富岡製糸場世界遺産伝道師協会と連係して講座を開催するなど、広報活動も展開しています。

まさに地域あげての活動は、世界遺産およびその候補の物件を有する地域が、自らの資産の価値を再確認し、誇りをもって維持していくきっかけとなっていると思います。

2007年12月27日

チュニジア イシュケル国立公園について調べてみました。

「日が昇る国」と呼ばれる日本に対し、アフリカの北端、地中海に面する小国、チュニジアはアラビア語でマグレブ(日の沈む場所)と呼ばれます。青い海と白い家のコントラストが美しい地中海沿岸の都市チュニス、その郊外の丘、シディ・ブ・サイドは、チュニジアで最も美しい街といわれます。南部には、サハラ砂漠の荒涼とした、でもどこか哀愁をおびた風景が広がります。

日本からはるかかなたのアフリカのこの地は、実は、映画「スターウォーズ」や「イングリッシュペイジェント」など、数々の映画のロケ地となり、映画ファンには懐かしさを感じさせます。また、チュニジア北部の地中海沿岸近くの湖、イシュケル湖を含む「イシュケル国立公園」は、毎年何十万もの渡り鳥が訪れる手つかずの湿原地帯です。イシュケル国立公園は、渡り鳥の重要な中継地として、1980年以来、ユネスコの世界自然遺産に登録されています。

1996年以来、イシュケル国立公園は、ユネスコの危機遺産にも登録されました。チュニジア政府は、真水の保持、塩分の減少のために幾つかのステップを試みました。しかし塩分濃度の極度の上昇により、回復の可能性が急速に失われていることが、国際自然保護連合(IUCN)により報告されています。

2007年12月28日

アフリカ チュニジアの世界遺産について知りたい。

チュニジアンブルーといわれる、青と白のアーチで知られるアフリカ大陸の最北端の国、チュニジア。日本の面積の3分の2ほどのとても歴史の古い国です。シシリー島のちょうど真向かい、まるでイタリアの靴の先でちょんっとつつかれてしまいそうな所に位置する、地中海に面した国です。

建物の多くは壁が白、窓とドアは青色です。いたるところに組み込まれたアーチがリゾート気分を誘います。ここは地中海屈指のバカンスの地。青い地中海を臨む一方で、南部はサハラ砂漠の出発地となります。

北アフリカの先住民族、ベルベル人が紀元前に王朝を打ちたて、その後、フェニキア人がカルタゴを建国しました。ローマ帝国との戦いのあと、ローマの属領となったかと思うと、7世紀にはイスラム帝国のアラブ人、更にはオスマントルコも入りました。さらにはレコンキスタによってスペインから逃れた難民までも入って、フランスの植民地となり、1956年に独立し共和国となったのです。

長い歴史のなかで、アラブ系、ラテン系、白人、黒人・・・
さまざまな人種が混在し、溶け合い、チュニジア独自のモザイク文化を生み出しています。

チュニジアには、その歴史を物語る遺産が数多く存在し、ユネスコの世界遺産には8件(文化遺産7件、自然遺産1件)が登録されています:

自然遺産
●イシュケル国立公園

文化遺産
●チュニスのメディナ
●カルタゴ遺跡
●エル・ジェムの円形闘技場
●ケルクアンの古代カルタゴ遺跡とその墓地遺跡
●スースのメディナ
●カイルアン
●ドゥッガ

2007年12月29日

世界遺産劇場について説明します。

現在日本でユネスコの世界遺産に登録されているのは、14箇所です。文化遺産が11箇所、自然遺産が3箇所です。その日本全国の世界遺産を舞台に、劇場空間を設定し、わが国を代表するアーティストらがパフォーミングを繰り広げるのが、「世界遺産劇場」です。世界遺産をより多くの人びとに理解していただき、ユネスコの運動の普及と啓発を目指す活動のひとつです。

1972年、ユネスコは「世界遺産条約」を採択しました。貴重な文化遺産を次の世代へ世界的な協力によって受け継いでいくためです。その後、2003年には「無形文化遺産の保護に関する条約」を採択しました。有形の遺産に限らず、広く無形の文化遺産も後世に伝えていくためです。

ユネスコ創立60周年を記念し、日本では、今年誕生60年を迎える、「民間ユネスコ協会」が中心となり、2006年5月、奈良・東大寺大仏殿から始まり、2008年までの3年間、「世界遺産劇場」のアートプロジェクトを実施しています。

有形・無形の文化遺産に広く焦点をあて、世界遺産のある地域の人びとがその文化遺産を資源に、地域の風土にちなんだ個性と誇りを創造していこうという企画です。

2007年12月30日

アブ・シンベル神殿について調べてみました。

1960年代のアスワンハイダム建設で水没を危惧された、アブ・シンベル神殿。アスワンの南280km、アスワンハイダム建設によってできた、人造湖であるナセル湖のほとりにあります。

アブ・シンベル神殿は、古代エジプト新王国時代第19王朝のラメセス2世によって建設されました。今から約3300年前のことです。ラメセス2世は、カルナック神殿やルクソール神殿にも自分の巨像を残しています。よほど自己顕示欲が強かったのでしょう。大神殿正面には4体のラメセス2世像がまさにそびえたっています。その高さは20m。あまりの大きさに圧倒されてしまうばかりです。その巨像の上にずらりと並んでいるのが、日の出を喜ぶ22体のヒヒ。ユニークなその姿には、思わず笑みがこぼれます。

入り口手前には、戦争捕虜のレリーフが残ります。アフリカ系の捕虜など、その顔つきは明らかにアラブ系とは異なります。

ライトアップされた大・小のアブ・シンベル神殿を見ていると、悠久の時間の思いを馳せると共に、このすばらしい遺跡がダムの水の底に沈まなくて本当に良かった、とつくづく思います。

2007年12月31日

世界遺産と共に暮らす人びと エジプトヌビア人について調べてみました。

ユネスコの世界遺産活動のきっかけとなったのは、アスワンハイダムの建設による水没からアブ・シンベル遺跡をはじめとするヌビア遺跡群を救おうとするキャンペーンでした。

このヌビア地方には、ヌビア人といって、エジプト人とは異なる風貌の人たちが昔から住んでいました。色黒で、ちぢれた髪をもつ人びとです。自分たちはエジプシャンでもアフリカンでもなく、ヌビア人である、という誇りと、持ち前の人懐っこさで訪れる人を温かく迎えてくれます。アスワンの岩窟墳墓のある丘から北を見ると、集落が広がっています。ヌビア村です。岩窟墳墓下の船着場かの近くからは小型の乗合トラックが出ており、チャーターして周ることもできます。ヌビア人は、エジプトの属国として支配されてきた歴史を持ちます。しかしその独特の言語、文化を維持し、現在でもその面影を垣間見ることができます。

エジプトにはハッジといって巡礼に行った人たちが家の壁に絵を描く習慣があります。通常は、サウジアラビアのメッカに至る交通や神殿の絵が描かれますが、ヌビア人の家々の白い壁には、その他にヌビア特有の絵(羽の生えた動物)が描かれています。ヌビア村の家々の玄関先には、魔よけのワニの剥製が飾られていたりします。また、「ヘンナ」と呼ばれる天然の染料でタトゥーを施す習慣があります。ヌビア風のきれいな幾何学紋様のデザインで、3週間ほど持続します。

確かに、アスワンハイダムの建設により、歴史ある遺跡がその存続を危ぶまれる危機に晒されました。しかしそのダム建設により砂漠に緑が戻りつつあるもの事実です。アブ・シンベル神殿には移築の跡が残っています。

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